« 2006年12月 | トップページ | 2007年6月 »

2007年5月30日 (水)

「炎のバッツィー」 加藤幸子 (新潮2007年6月号)

あのバッツィーが帰ってきた!
2006年11月号の群像に突如現れた、謎の生物バッツィー。
その奇怪な言動と傍若無人の行動は読んだ者を恐怖のどん底に落とし込んだ。
そして、バッツィーが深い雪山に捨てられた時、ホラー映画の結末のようなカタルシスを覚えた。
しかし・・・
ホラー映画のお約束の如く、バッツィーは再び戻ってきたのだった。
死んだと思って、ほっとしたところを急襲するのは、まさにお約束で、こうなるとかえって清々しいほどだ。

バッツィーとの暮らしがまた始まる。何事も無かったように。
小姑のような嫌みなバッツィーのコトバが主人公に突き刺さる。
忘却虫に脳を冒されているせいか、台所で火を使っても忘れて放置する。
しかも、なぜか火が好きなため、火事の危険が常にある。
こんなバッツィーとずっと暮らしていかなければならないのだ。

主人公の目下の願いは、自分もバッツィーと同化することである。
バッツィーを憎みながらも、どこかで自分とバッツィーの共通性を見抜いている。
人は誰でも老いると、バッツィーになっていくのだ。

しかしこのバッツィー、キャラクターとして相当魅力的だ。
全身鱗。頭の毛が薄い。ほうじ茶が好き。独特の異臭がする。耳が遠い。火を使うのが好き。
怪獣のようないびき。とにかく構われるのが好き。
視覚化する猛者はどこかにいないか。
(新潮2007年6月号)

家のロマンス家のロマンス
加藤 幸子


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

| | トラックバック (0)

2007年5月29日 (火)

「湖の南」 富岡多恵子  (新潮2007年1月号)

大津事件と言っても、たいていの人には教科書の中の事件に過ぎない。
私もそうだ。なぜそんな今どき誰も興味を持たない事件をことさらに書く必要があったのだろうか。
そんな疑問のうちにこれを読み進めていった。
しかしなぜだか面白い。奇妙な好奇心が頭をもたげる。
事件の犯人、津田巡査の生涯は、お世辞にもぱっとしない平凡なものだ。
結局、ロシア皇太子を刺した動機もよくわからない。
魔が差したとしか言いようのない、くだらない話だ。

歴史小説やテレビの歴史番組などで扱う事件には、ちゃんと意味付けできる背景がある。
その背景がドラマを作る。
しかし、往々にしてそうした意味ありげな背景というものは、脚色されている。
真実は複雑怪奇で実際のところ、当事者にしかわからない。
だからそれを一般化するには、わかりやすい陳腐さが必要だ。
陳腐さをもって、人々はそれを「事件」として納得できるのだ。
いや、納得したいのだろう。
作者の富岡はその陳腐さの欺瞞に対して、陳腐さをもって逆襲した。
陳腐な田舎巡査の起こした馬鹿馬鹿しい意味の無い事件を掘り起こすことで、
ほんとうの姿の歴史を逆説的に語ったのだ。

後半、話は作者にまとわりつくストーカー的ファンや、奇妙な行動をする家政婦の話がしばしば挿入される。
事件の背景を語る代わりに、富岡は、自身の周りに起こった不快な出来事を綴るのだ。
普通の歴史小説ではありえない脱線である。
従来の歴史小説を読み慣れた読者であれば、こうした脱線は掟破りで、イライラすることだろう。
しかしそのイライラの正体が何であるかを今一度考えてみてほしい。
それこそが、「歴史」というもの対して、我々が知らず知らずに持っている誤った先入観なのだということを。
(新潮2007年1月号)

湖の南
410315005X富岡 多惠子

新潮社 2007-03
売り上げランキング : 3571

おすすめ平均star
star昔、湖の南に男ありき

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


| | トラックバック (0)

« 2006年12月 | トップページ | 2007年6月 »