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2005年11月24日 (木)

「踊るナマズ」高瀬ちひろ (すばる2005年11月号)

 第29回すばる文学賞受賞作。九州に伝わるナマズ伝説を絡めながら、自分の夫との思い出を語る。
 東京新聞のコラムにも取り上げられていたが、選考委員の評価があまり芳しくない。「現代文学流行り物見本市」「マンガ定型風の安易なラブストーリー」「豪華おせちのパンフレットみたい」(笙野頼子)、「コンビニ小説」(辻仁成)あたりが一番手厳しく、他の評者も筆力は認めているが、受けそうな素材を並べたようなところが、いささか食い足りないようだ。

 評者の指摘で印象的だったのは、川上弘美の「親切」という言葉だ。要するに、この小説は「親切過ぎる」のだ。新人賞応募作ということで、どうしても作者は「ウケる」話を書こうとする。こういう素材でこんな話を読みたいんでしょ?と作者があまりにも意識し過ぎているのが、逆に白けてしまうのだ。この作者は器用な分、その親切心が前に出てきていて損をしている。

 このへんは昨年の受賞者、中島たい子も同様であり、どうしても読後感に軽さがついて回る。いまどきのOLのいまどきの悩みも結構だが、やはり純文学を名乗る以上は、そこに背を向けても語るべき何かを見つけてほしいものである。ウケる定型話が書きたいのならば「小説○○」といった大衆小説誌でデビューしたほうがいい。

 肝心の話の内容だが、なによりナマズ伝説を単なる性教育の道具に収斂してしまっているところがいただけない。単なる性教育だけの目的で、人々が何百年も語り継ぐわけがないではないか。伝説というものは意味が幾重にも巧妙に隠されているから魅力があるのであって、そんな記号的に解読できるほど簡単なものではないのだ。ある意味この小説はナマズ伝説が本来保持していた得体の知れない魅力を剥ぎ取り、無力化してしまったとも言える。全く罪なことだ。現代人の視点のみからクリアカットに伝説を解いても良いことはひとつもない。
(すばる2005年11月号)

ただのナマズと思うなよ
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文藝春秋 2004-09-11
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おすすめ平均star
star相変わらずすごいなぁ

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2005年11月23日 (水)

「拍手と手拍子」佐藤弘 (新潮2005年11月号)

これは普通に読めば、いわゆるそのへんにいる大学生たちのままごとみたいな恋愛をめぐる青春小説だと思う。複数の女とセックス目当てで都合良くつきあい、授業もバイトも含めた自分を取り巻く世間一般には何のコミットもせず日々なんとなく過ごしている様子を一読して、ああ大学生はヒマでいいなと思ってしまった。先頃、群像に掲載された前田司郎の「愛でもない青春でもない旅立たない」にも似たような雰囲気を感じたが、あれはまだ「何もやらない」という逆説的な意志めいたものを感じたのだが、これにはそれすら無い。

 なんなんだこれはと思ったのも正直なところだったが、読んだ後、様々な反芻しているうちに、もしかしてこれは敢えて誰も触れない「恋愛の正体」を無意識のうちに語っているのではないかと思うようになった。相手の人格より性欲優先。他人の気持ちより自分の都合。かなり男女とも利己的な振る舞いが強調されて描かれている。考えてみると、そういう人物は今どきの小説やTVドラマでは主人公には選ばれない。観る人々に共感や憧れを呼び起こさないからだろう。しかし現実はまるで反対で、この小説に出てくる大学生みたいな無自覚な利己的行動を恋愛と称している者が大部分だ。だからこそ純愛などという言葉が逆にもてはやされる。

 彼らは現状に恐怖も感じている。次の一節がそれを端的に表している。

「でも、オレは本当にたまに思うんだけど、ずっとこんな調子で付き合って別れてって繰り返してそのままなんとなく結婚しそうでさ、恐いんだよ。セックスとかしてるとさ、途中で分からなくなるんだよ。本当に好きなのかどうか。なんでこんなことしてるんだろうって。急に冷めちゃって。好きじゃない人としてたほうが全然気持ちよかったりしてさ、のめりこまないんだよ。分からなくなるわけ。」

 まあ実際誰だって少なからずそうでしょう。しかしそれを正面切って言う人がメディアの世界では目立たなかっただけである。彼らの恋愛の理想はどこにあるのか?やはり世間一般で素敵とされている純愛の方向なのか。ドラマチックな運動性に満ちた恋愛でも演じたいのか。
 しかし恋愛の正体はそんなところにはない。恋愛の正体は、彼らがまさに恐怖するように「ぼちぼち」なのだ。ぼちぼちの相手と繋がって、ぼちぼち暮らす。その「ぼちぼち」を受け入れるところから真の恋愛が始まるわけだが、純愛に犯され切った者たちにはそれが見えない。本当は「ぼちぼち」の中にこそ語るべき面白さがずいぶん隠されているのだが。

 期せずして、この小説はいまどきのヒマな大学生の生活を切り取ることによって、現実的な恋愛の正体のしっぽみたいなものを偶然掴んでいると言ったら褒め過ぎか。
(新潮2005年11月号)

世界の中心で、愛をさけぶ DVD-BOX
B0002KU98Q山田孝之 片山恭一 綾瀬はるか

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2005-01-01
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おすすめ平均star
star素晴らしい。
star子を持つ親にお勧めします
star朔太郎が骨(遺灰)を持ち続けた意味

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2005年11月22日 (火)

「ベンちゃんの『誰も知らない』」中沢けい (新潮2005年11月号)

 子供の頃から音に敏感で、授業中も遠くから聞こえてくる珠がはじけるような音に耳をすませていた主人公ベンちゃん。やがて音大を卒業して中学の音楽教師となる。吹奏楽部の顧問をしていたが、そのハードな練習が父兄達の不興を買い、自らその職を辞任する。

 音楽の楽しさを教えることは難しい作業だ。ひとつ教え方を間違えると、生徒にとっては単なる苦行にしかならず、音楽という教科は恐怖の存在として記憶に一生刻まれる。かく言う私もそのパターンで、小中高校を通じて音楽の授業で楽しい経験は一度もない。家で聞く流行歌をはじめとした様々な音楽はいつも楽しかったのに、なぜ音楽の授業はかくもつまらない記憶しか残していないのか。それをすべて教師の責任にするつもりはないが、やはりプリミティブな次元での音楽の持つ官能性を伝えようとしていなかったからかもしれない。

 この作品を読んで、思わず人気マンガの「のだめカンタービレ」を思い出したのだが、「音がわかる」人々は幸せである。音を言葉で語ることができ、それを手がかりにある種の官能を手に入れることが可能だからだ。
 そうした経験を分け与えられる教師は素晴らしいが、残念ながらベンちゃんはそういうタイプの教師ではなかったようだ。

 最後にベンちゃんは映画『誰も知らない』を観ながら、今後の自分の進む方向を考える。このあたりは映画を観たことがあれば、さらにその思いが伝わってくるのだろうか。そのへんはちょっとわからない。
(新潮2005年11月号)

誰も知らない
B0002PPXQY柳楽優弥 是枝裕和 北浦愛

バンダイビジュアル 2005-03-11
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おすすめ平均star
star「誰も知ろうとしなかった」のではないだろうか。
starみんなさがしている…
star一人でも多くの、大人、に見てもらいたい映画。

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2005年11月21日 (月)

「ぜつぼう」本谷有希子 (群像2005年11月号)

 「電波少年」を彷彿とさせる海外放浪企画で一躍有名になったが、その後人気が急落したお笑い芸人、戸越。「あのひとは今」状態に耐えられず、世間に背を向けて過ごす。こうした状況に陥ったのも、そもそもは自分を世に出したTVのプロデューサーのせいだと呪い、復讐を誓う。自分の才能の無さを棚に上げた、なんとも都合のいい八つ当たりである。ある日出会った謎の男が、その復讐の手助けをしてやるから、準備が整うまで自分の田舎の実家を貸すので住めと言う。
 半信半疑でその田舎に向かう戸越。そこで待っていたのは、シズミというこれまた謎の女であった。よそ者を嫌う田舎社会に受け入れてもらうために、戸越はシズミの助言で、シズミの夫という別人格を装う。幸い田舎の人々はテレビに疎く、戸越がお笑い芸人であることに気付かない。群像の創作合評でも指摘されていたが、田舎だからテレビに疎いという前提には疑問がある。情報・娯楽に飢えている田舎のほうが、むしろテレビについては詳しいのではないだろうか。
 まんまと別人格になりすまし、田舎に溶け込んだ戸越だったが、ある日シズミの本当の旦那が現れ、あっけなくシズミは連れ去られる。シズミに対して極力、恋愛的な心情を持たないようにしていた戸越だったが、知らないうちにシズミは彼の心の多くの部分を占める存在となっていたことに気付く。
そのうち、謎の男が現れ、例の復讐の準備が出来たと告げる。戸越は様々な複雑な思いを引きずりながら、田舎を去り、東京に向かうのだった。

 改めて驚くのは、戸越が田舎で過ごした時間がたった十日間であったということだ。物語のほとんどが田舎での生活で占められているので、半年いや一年くらいの時間が過ぎたような感覚を覚える。もしかすると、そこはおとぎ話に出てくる村の如く、時間が外界とは別の速度で進む桃源郷のような場所だったのか。まるで浦島太郎の竜宮城、「千と千尋の神隠し」の町のように。そうでも思わないと、納得いかない部分が多すぎる。だいたいたった十日でどうしてこれほどまでに知らない田舎に馴染み、知らない女に深く思い入れができるのか。

 戸越の抱く失意の感情は「絶望」ではなくひらがなの「ぜつぼう」だ。それはまるでテレビでつくられたような甘くぬるい絶望である。なんのしぶとさもなく、落ち目ということを逆手に取るほどのしたたかさもない、なんとも「ぬるい」芸人が抱く絶望はハリボテでスカスカの「ぜつぼう」がよく似合っている。戸越自身もそれはわかっていて、「本当の絶望」を見出したくてもがく。しかしもがけばもがくほど、絶望は遠ざかり、絶望できない自分に苛立っていく。
 お笑い芸人にしては、自分を笑うセンスもなく、ただひたすら自分探しに終始し、自分が誰にとって必要で、何を求められているかについては耳を閉ざすその姿勢には正直うんざりするが、それもまた現代のある人種のリアルな姿なのかもしれない。
(群像2005年11月号)


腑抜けども、悲しみの愛を見せろ
4062129981本谷 有希子

講談社 2005-07
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おすすめ平均star
star去りゆく者の裁き
star気負いこそ見られるが…。
star・・・はよかった

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2005年11月20日 (日)

「ジョン・シルバーの碑」稲葉真弓 (群像2005年11月号)

 突如、難病に襲われ、片足を失うことになった母。母の病気は、家にあった古い井戸の因果であるという。主人公は井戸の供養をし、子供の頃の井戸との関わりに思いを馳せる。
 古い井戸が母の病気と関係していると言ったのは、どこかの尼さんらしいが、まともな仏教の尼さんならば、決してこんなオカルトめいた事は言わないはずだ。そもそもこうした安易な結びつけは、「因果」とは言わない。因果は自分自身の中に原因と結果があるという極めて分析的な思考に則ったものだ。たまたま近くにあった不吉なイメージを母の病気というものに短絡的に結びつけるということは、仏教でいう「執着・無明」の状態だと思う。母の病気の原因は冷静に見て、様々な要素が絡み合っているはずなのに、そういう多くの可能性が見えず、井戸だけを選ぶというのは、偏った執着に囚われている。

 しかし、そうは言っても、肉親の病気などに直面したような心が弱っている状況においては、かなりの心の鍛錬をしていないと、こうしたオカルト因果話に身をゆだねてしまいがちだ。その気持ちはよくわかる。そういう安易な物語に乗ったほうが、楽であるし。
 片足を失った母に対して、真っ正面に向き合い、その事実を受け入れるには、こうした物語が彼女には必要だったのだろう。しかし、本当に母のことを思うのであれば、なおさら井戸で決着をつけてはいけなかったのではなかろうか。
 きっと井戸は、母の病気とは関係なく、彼女の中でいつかは解決しなければならない存在だったのだ。それがたまたま母の病気という事件をきっかけにして顕在化したのだ。
 井戸は彼女にとって、どんな存在だったのだろう。それはもしかしたら彼女自身も気付かないような、自分を家に縛り付ける束縛の象徴だったのかもしれない。ともかく彼女は井戸との関係を清算することができた。それは母が自分の片足を差し出して娘に与えた解放への扉だったのだ。
(群像2005年11月号)

還流
4062130548稲葉 真弓

講談社 2005-08-26
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2005年11月19日 (土)

「冷たい水の羊」田中慎弥 (新潮2005年11月号)

 第三十七回新潮新人賞受賞作。中学生のいじめを扱った話だが、いじめられている主人公の思考回路が少々変わっている。
 いじめられているという意識を持たなければ、いじめという事実も消えるという論理を拠り所にして、日々をしのいでいるのだ。
 そのため、いじめられていると他者から認識されることが、何より辛く、担任にいじめの報告をした同級生の少女に殺意を覚える。

 少女を殺して自分も自殺することを臨界点にして、物語は進む。途中、視点がいじめの加害者、家族などに移動し、主人公を取り巻く他者たちが何を実際考えていたのかがわかる仕組みなっている。視点が変わることが引っかかるという評者も多かったが、私はむしろ取り巻き達の内面がやや予定調和的なところが残念に思えた。これではせっかく視点を変えても、それだけの意味がない。他人は思いもかけないことを考えているものだという部分を示してほしかった。また、最後にこの主人公がどうなるかが最大のポイントなのだが、物語としてはやや意外な方向に行く。想像と現実が地続きの文で書かれているので、一度読んだだけでは状況が把握できなかったが、そのわかりにくさがそのまま主人公の苦悩を表しているようでもある。ある意味、彼は最も辛い選択をしたとも言えよう。

 いじめの場面など、きつい描写が丹念に描かれ、かなり気が滅入るのも事実だが、全体的に文章にハリがあって、ぬるい部分がないので思わず引き込まれる。特徴的なのは、溢れかえるほどにちりばめられた比喩の数々で、描写に豊かな奥行きを与えてくれる。しかし、少し回りくどく感じる場合もあるので、このへんは好みが分かれるところだろう。

 作者は三十代前半であり、中学生の心理・行動との落差を指摘する人もいる。しかし、小説はドキュメントではないので、実際の中学生がどうであろうと、そこに同種の切実さが存在していれば、それだけで小説として成立するはずだ。

ベケットと「いじめ」
別役 実

4560720835
白水社 2005-08
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2005年11月18日 (金)

「課長 島雅彦」阿部和重 (新潮2005年11月号)

 これはどこから見ても、作家島田雅彦への悪口である。その証拠に、当の島田雅彦が翌月の文學界新人賞選評で明確に噛みついている。以下一部引用する。

「(中略)幸か不幸か、私は小賢しい三十代に対しては、哀川翔みたいに兄貴面する癖があるので、これを押した。どうぞ、阿部和重みたいに、メンタル・ディプレッションにあえぐ盟友のために、その作風を模倣しつつ、誰かへのあてつけで、ブログのジャンク・ニュースを書くような真似をしてください。私は金輪際、兄貴面、先輩面、課長面するのはやめ、古井由吉氏や松浦寿輝氏とともに物狂いへの道を進みますから。(後略)」

 完全に怒っている。これほど正面から怒ってくるとは、阿部氏も予想していただろうか。しかし島田氏の言葉にも一理あって、今回の小説は、どこから見ても、阿部氏の友人である中原昌也の小説スタイルの模倣である。自分では模倣することで洒落たつもりだろうが、他人は、島田氏が指摘するように、ああやっぱり阿部と中原は仲がいいんだねえ、という印象を強化するだけだ。
 私は以前から、阿部氏、中原氏、そして青山真治氏を含んだ三人の「つるみ」具合が、どうしても、なあなあの関係に見えて仕方がない。いくら仲良くても、互いに対する批評眼を失ったら、それは単なるネオ文壇とも言える仲良しクラブでしかないだろう。極論すれば、作家はやはりあらゆる意味で「ともだち」を作るべきではないだろうし、「ともだち」を必要とする時点で、もう小説など書く必要はない。
 この際、丸山健二の「生きるなんて」でも読んでみてはいかがだろうか。

青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!
4898151329青山 真治 中原 昌也 阿部 和重

リトルモア 2004-06
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starこう言っちゃ元も子もないけど
star3人のルーツ

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2005年11月17日 (木)

「銀色の翼」佐川光晴 (文學界2005年11月号)

 頭痛に悩む夫婦の話。頭痛といっても生半可なものではない。いわゆる「銀色の翼」という幻の風景が網膜の奥に浮かんでくるような痛さである。
幸い、私はそういった幻を見たことはないが、「銀色の翼」というネーミングからは実に痛そうな感じが伝わってくる。
 作者は一貫して家族を軸にして物語をこれまでも作ってきたが、今回のストーリーは過去のものより切実さのレベルが一段高い。
 主人公より妻の病状のほうが重く、頭痛以外にも精神的にも病んでいく過程は読むのが辛くなるほどだ。
 自分の身内がこのような状態に陥ったらと思うと怖ろしいが、主人公は献身的に妻に接する。しかし主人公もまた病人であるわけで、妻の言動は時に彼を深くえぐる。

 彼と妻を繋ぐアイテムに「石」が登場するのだが、これがなかなか厄介な代物で、二人の縁結びであり、亀裂を生み出すものでもあり、そして再生をもたらすものでもあるのだ。現代の世の中では、とかく「癒し」という言葉がもてはやされるが、本当の「癒し」に至るには、苦痛を伴った再生が必要である。クライマックスで彼らが石を巡って行動するシーンは、まさにそうした本当の「癒し」へのプロセスを描いているようだ。
(文學界2005年11月号)

家族芝居
4163237607佐川 光晴

文藝春秋 2005-02
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おすすめ平均star
star語り手のありかたが。

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2005年11月16日 (水)

「栄螺のある陸」楠見朋彦 (文學界2005年11月号)

 高校の同級生二人が、会津若松にある栄螺(さざえ)堂で再会し、思い出を語り合う。栄螺堂は、さざえという名の通り、堂内がらせん階段になっており、日本でも珍しい形の観音堂である。上りと下りが別々の階段になっているので、参拝者がすれ違わずに済むようになっている。その階段を上がり降りしながら、彼らは思い出を語り合う。ここを再会の場所に選んだのは、高校時代にこのお堂について夢中になったためだ。

 物語は、栄螺堂の由来などを絡めながら、彼らの過去と現在の境遇が明らかにされてゆく。由来や歴史ごとの記述が少し生硬で、物語の中に溶け込みきれていない感があるが、このお堂で彼らが再会しなければならなかった気持ちは伝わってくる。実際読んでいて、昔の友人に会いたくなるような気分に襲われる。
 
 ただし、彼らは決して互いに傷を舐め合うようなことはしない。ただ静かに思い出を語り、今までの人生の中での互いの存在を確認していく。それは自分の人生に他者の視点を入れることで、対象化し、ただ美化された主観的な人生の思い出でなく、厳しく自立した人の歴史として昇華する作業のようにも映る。その作業は、栄螺堂という上り下りが別々のルートになっている階段で語られることで、一段とその意味を明らかにしているようだ。今まで上がってきた過去の道とは違う道を降りていくこと、そして過去の道は遠ざかることなく、すぐそばに見えていること。その事実を実感しながら、彼らはまた10年後の再会を約束する。現状の生き方で生じるほつれを正し、またこれから歩まなければいけない未来のために、昔の友人という過去は必要なのだろう。
(文學界2005年11月号)


ジャンヌ、裁かるる
4062117525楠見 朋彦

講談社 2003-03
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2005年11月15日 (火)

「磐神」田口ランディ (文學界2005年11月号)

 このところ数ヶ月続いている広島原爆もの。今回はある女性作家が「若い世代にアピールするヒロシマ」を書くために、広島を取材する過程で、発見する一冊の本をめぐる話である。今までのものとは違って、少し作者自身の取材プロセスにも関わるような、いわばメタな設定だ。
 取材に協力してくれる新聞記者が、なんだか安いメロドラマに出てくるようなキャラで脱力してしまうけれど、作者がこのシリーズを一話ごとに全く違う雰囲気で書き分けていこうとする努力は評価あれるべきであろう。
 
 作者が発見する一冊の本は、被爆女性によって書かれたものであるが、その文体が独特で、あまり万人受けするようなものではなかった。事実、主人公は様々な人にこの「磐神」という小説を読ませるのだが、返ってくる感想はどれもいまいちのものばかり。ついに彼女はこの小説は、自分のためだけに書かれたものであり、自分だけが理解できるものだという結論に至る。
 よく人は誰も一生でひとつの物語を書けるというが、この「磐神」はまさにそんな物語であった。その物語が真に届く読者もまたこの世にひとり。マスメディアで本の売れ行きだけがもてはやされる時代、この一対一の構図がなぜか幸せに見えるのは、私だけではあるまい。
(文學界2005年11月号)

オラ!メヒコ
4043753020田口 ランディ AKIRA

角川書店 2005-06-25
売り上げランキング : 4,103

おすすめ平均star
star行ってみたくなる、メキシコ。
star恋焦がれ

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2005年11月14日 (月)

「大きくなあれ」大道珠貴 (文學界2005年11月号)

 大道珠貴を子供の頃から読んでいると、どういう大人になるのだろうか。少なくとも「勝ち組」に憧れるような大人にはならないだろう。大人になってからはともかく、大道珠貴を読んでいれば、子供の頃にいじめられても、なんとか切り抜けられるような気もする。そういう意味でも彼女には、大人のためだけでなく、子供のためにも物語を書いてもらいたい。そんなこと言っても、「こどもなんか、ケッ」と軽く言われそうだが。

 小学5年生のアザミは成長するのを拒否している。しかし身体はそんなアザミの気持ちとは裏腹にぐんぐん成長していく。複雑な家庭環境、接し方がこれまた複雑な同級生。そんな周囲を抱えながら、アザミは成長していく。こうした世代の女児を描くのは、男性作家では難しいだろう。男児はまた全く別の世界を生きているからだ。それは互いに想像もつかない未知なる世界だ。かつて机を並べていた異性たちは、こんな世界を抱えて生きていたのだということを知るには格好の物語だろう。たぶんこれを読むべきなのは、女性ではなく、大人の男性たちなのだ。
(文學界2005年11月号)

後ろ向きで歩こう
4163241809大道 珠貴

文藝春秋 2005-07-22
売り上げランキング : 137,183

おすすめ平均star
star大道さんが降りてきてくれた。

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2005年11月13日 (日)

「青いスクーター」藤野千夜 (文學界2005年11月号)

 特集・大人のための児童文学のために書かれた作品。「大人のための」という部分をどう捉えていいのか微妙だが、今売れている小説の多くが童話のようなものであるから、これは一級の皮肉として考えることにした。
 話は生き霊に取り憑かれた高校男子が主人公。まさに青春まっただなかという感じの高校男子で、考え・行動がスピーディだ。こうした筆致はさすが変幻自在の文体を持つ藤野千夜である。

 生き霊はどうやら昔酷い目に遭わせた女子が恨んだ末に生じたものであるらしい。困った彼は思いきって、その本人に会って解決の道を探るが、一度生じた生き霊は、もはや彼女本人にもどうすることもできないらしい。そのあたりの融通の効かなさが妙に生々しくて読後の記憶に残る。最後には生き霊もその姿を消すが、消えた原因も不明であり、高校男子も最悪の結末を迎える。
 よくあるぬるい現代童話のように最後は平凡なハッピーエンドで終わらないところが、あらゆる教訓的意味に回収されない強みを持っている。なんだかわからない、ざらっとした味が残ってこそ、無意識に訴えるという本来の童話が持つ意味が表れてくるのだ。
(文學界2005年11月号)

ルート225
4101164312藤野 千夜

新潮社 2004-12
売り上げランキング : 69,269

おすすめ平均star
star読み手を選ぶ
star姉弟愛ですね
starこの姉弟に泣かされてしまった

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2005年11月 8日 (火)

「バス通りの夏」松野大介 (文學界2005年10月号)

 ボクシングに挫折し、雑多な職を経て、とある地方都市のスポーツジムでボクシングの講師になった男。30にも手が届くという年齢らしいが、どこか芯が無い。自分でもそれを自覚して苛ついているのか、常に拗ねたような気分を抱え、斜に構えた態度を取る。職場にいる遙か年上の女性(51歳)に恋をするのだが、そのアプローチの仕方も、ちょっとぎこちなく、ややもするとストーカーと変わらない。どうも他人とも自分とも折り合いのつかない性格のようだ。

 物語の随所に顔を出す、若さ故の焦燥感(この主人公はそれほど若くもないのだが)には同情する部分もあるが、やはり甘ったれているのには変わりなく、もう少しちゃんとしたらと言うしかない。しかしダメな主人公にはダメなりの興味がわいてくる。房総・鴨川の先の地方都市のわびしさと相まって、彼という存在のせつなさが伝わってくるようだ。
 作者はどうやらこの物語の舞台となった地域でカンヅメになって作品を書くことがあるらしく、房総のあたりは土地勘があるのだろう。街の描き方に奇妙なリアリティがあるのが印象的だ。
(文學界2005年10月号)

天国からマグノリアの花を
4062130297松野 大介

講談社 2005-09-10
売り上げランキング : 1,531,816

おすすめ平均star
starミステリーの形を借りた純愛もの

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2005年11月 7日 (月)

「U.S.+S.R. 極東欧のサウナ」多和田葉子 (新潮2005年10月号)

 前作「旅をする裸の目」もそうだったが、作者は異文化の中に漂流する個人を描くのがうまい。世界は情報技術の発達によって様々な意味で均質化していくと言われるが、果たしてそうだろうか。いくら技術が押し寄せても、どうしようもなく変わらない世界はあるのではないだろうか。いくら歯を立てて囓っても崩れない感情の芯のようなものにぶち当たり、戸惑い、そしてその反射から自分をぼんやり眺めるような人物を作者は描く。

 サハリン島を旅する主人公は出会う人、見る風景に対して、重層的な思いを抱く。それはやや実験的な手法によって表現されている。すなわち、a. b. c.や(1)(2)(3)といった箇条書きで並列的に記される。それは決してテストの問題のように、どれかが正解というものではなく、時にすべて正解であり時にすべて間違いかもしれない。
それは、異文化に接して自分の思いと態度が宙に浮いているような状態を、自ずと表現しているようでもある。

 後半、主人公はニューヨークに旅立ち、ロシア式のサウナとバーを訪れる。そこはアメリカの中のロシアのようだが、どことなくアメリカの臭いが漂う中途半端な場所だ。そこで主人公はサハリンの旅を反芻し、これから自分がそれについてどう向き合っていくかに思いを巡らす。アメリカの中心でロシアを彷徨う日本人の主人公の思いは、ねじれ、重層的になりながら永遠に収束することはないだろう。外国人には優柔不断に思えるかもしれないが、この複数の思いが同時に存在していることに身をゆだねる感覚は、もしかしたら日本人特有の感情の芯なのかもしれない。
(新潮2005年10月号)

旅をする裸の眼
4062125331多和田 葉子

講談社 2004-12
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おすすめ平均star
star読み手に対する要求が高い小説です

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2005年11月 1日 (火)

「うつつ・うつら」赤染晶子 (文學界2005年10月号)

 幻想的なタッチで描かれる芸人たちの物語。この作者の筆にかかると、どんな世界もセピア色に変化する。前作は旅行代理店を舞台にした話だったが、京都という場所設定も手伝って、どこか懐かしいレトロ感があった(話は店が洪水に襲われ、トイレが溢れるといった結構過激な展開なのだが)。
 今回も場所は京都。舞台は時間が止まったような寂しさを漂わせる演芸場。何十年も同じネタを繰り返し、ブレイクの兆しも見えない芸人、マドモワゼル鶴子が主人公である。彼女が舞台に立つと、階下の映画館から毎回同じセリフが漏れ聞こえてくる。同じネタを繰り返す鶴子と同じ映画を毎日上映する映画館。そう、そこは永遠に時間がループしている世界なのだ。
 加えて、楽屋では、少女漫才師の小夜子が「ほっちっちー」と壊れたレコードのように繰り返し歌っていて、なんだか頭が痛くなるような状況である。
 肝心の、鶴子らが演じるネタがもう少し面白ければ、なんとか楽に読めるのだが、どうにも暗くて笑えず、それがかえってこの奇妙な世界を色濃くしているようでもある。
 
 笑いの世界は新陳代謝が激しい。去年流行ったセリフも今年はもう古くなって、誰も笑ってくれない。年々その消費のスピードは加速されている。
 ひとつのギャグで一生食べていけたら、芸人もどんなに楽だろうか。今、流行の絶頂にいて寝る暇もないお笑いのトップも、いつ自分の賞味期限が来るのか戦々恐々としているのが現実だろう。ずっと今のままでいたい。これは売れている芸人にとって、ひとつの夢だろう。それには時間が止まればよいのだ。
 その夢の世界がここにある。しかし、ひとつ違うのは鶴子達は、売れていないということだ。これは間違いなく悪夢である。しかし鶴子たちは希望を忘れない。彼女らは毎日同じ舞台に立つ中で、コトバだけの存在になり、名前が消えて純化していく。それは、現実のお笑いの歴史の縮図を見るようでもある。
 芸人の名前は忘れられても、ギャグのフレーズだけは残るのだ。
(文學界2005年10月号)

上方漫才まつり <昭和編> 第1集
B0002B58IQWヤング コメディーNo.1 正司敏江・玲児

キングレコード 2004-09-18
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