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2005年10月30日 (日)

「糞の魂」桐野夏生 (新潮2005年10月号)

 文芸誌には、連作のような素振りをして、その実、単なる連載と変わらないものが常にいくつか存在している。どういう事情でそうなるかはわからないが、連作と称するならば、やはり、一作ごとに話として、ひとつのまとまりを持った完成品として発表してもらいたいものだ。前後の話の接ぎ穂でしかないような形で出されても、ひとつの作品として味わえないので困る。毎回、ひとつの独立した作品として構築できないならば、始めから連載とすればよいのだ。連載ではなく連作という形式に逃げ込むのは、毎号続けて書くことのできない作者の力量の無さと準備不足が関係していると思えてならない。

 そうしたエセ連作がはびこる中、桐野夏生のこの「東京島」だけは、連作としての意味合いをきちんと持った堂々たる作品である。この連作は、掲載されるのがとても待ち遠しい。
 最近、この連作でクローズアップされている人物は、集団から疎外されているワタナベだ。遭難して無人島で自活を余儀なくされている日本人ツアーの一行は、島での生活が長くなるにつれ、その本性を剥き出しにして生存競争にしのぎを削る。登場する全員がユニークな存在で、誰をとっても話ができあがるのだが、特にこの離れ猿的境遇のワタナベの思考・振る舞いは、あらゆる意味で日本人的で興味深い。ワタナベのことを醜いと感じることもできるが、しかし、それはあくまで衣食住足りた立場から見た限りの捉え方であり、こうした非情な状況に自らが置かれた時、誰もがワタナベと化す可能性は多分にあるのだ。無人島に流れ着くというのは、ある種のアレゴリーであり、状況だけ考えれば、それは地震のような災害、不可避な紛争、テロに置き換えることは容易い。
 
 今回、島への漂着者が新しく増えた。それは中国人らしき男達が10人ばかりで、ワタナベは彼らと行動を共にすることを選ぶ。この選択が今後ワタナベの運命をプラスに変えていくかは皆目わからない。ワタナベを疎外した日本人のグループは、既に不穏な姿勢を示し始めている。ワタナベは果たして作品完結まで生きていられるのか。次回の掲載がまたまた楽しみである。
(新潮2005年10月号)

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2005年10月29日 (土)

「ガシャポン ガールズ篇」宮崎誉子 (群像2005年10月号)

 主人公のあたしは小学6年生。担任に嫌われている。しかし、前の担任だった山口先生にはプライベートでもつきあう仲だ。クラスメートの白石さんは、うざい存在だが、友達のようなふりをしている。あたしはたぶん生意気で醒めているけれど、溢れるほどのせつなさを抱えている。でもそのせつなさを誰かに甘えることで減らしたりはしない。

 宮崎誉子は静かに進化している。今回の作品でもその進化ぶりは目を見張るばかりだ。
 作家は何かに後押しされながら物語を吐き出すものだが、彼女にとってそれは何だろうか。
 わずかなエッセイなどを読む限り、それほど多くのものを書きたいわけではないようだが、この進化ぶりを目の当たりにしたのでは、嫌でも書いてもらわねばなるまい。中原某が断筆に近い状況である今、彼女に託されたものは少なくない。
 10年後にはたぶんレトロになっているだろうが、ある時代に生きた少年少女の鼓動音が確かに伝わってくる作品だ。今では安易に甘酸っぱいレトロさを醸し出す目的でCMソングなどに使われてしまうことも多いフリッパーズ・ギターのようにも思える。

 ガーリッシュなどと形容されることも多い作者だが、今回も切れ味確かな「少女」を創り出した。いそうでいない、ひょっとすると、どこかに実際にいるのかもと思わせるような10代。現実と虚構の狭間に生息する、今の時代にしか呼吸できないような若い生き物に生命を吹き込めるのは、今の文学では彼女しか見当たらない。
(群像2005年10月号)

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2005年10月24日 (月)

「vanity」清水博子 (新潮2005年10月号)

 32歳の画子(かくこ)は、強盗に入られた挙げ句、隣人の失火でペットの小鳥を喪う。気持ちを立て直すために、アメリカ留学中の恋人の実家に身を寄せる。恋人の実家は神戸のハイソな家で、そこには絵に描いたような上流階級の暮らしをする恋人の母がいた。その母との生活を通して、画子は異文化である関西の生活スタイルを知る。
 
 vanityとは、虚飾、虚栄、無駄なものといった意味であるが、この作品において、それを指すと思われるものはいくつかある。関西のハイソなマダムの暮らしぶりなのかもしれないし、画子の行動や思いが空虚であると考えてもいいかもしれない。しかし残念ながら、いかにもvanityだと思えるほど、極端なことが書かれているわけではない。それは、今という時代がバブルの頃と違って、何もかもがこじんまりとしたスケールになってしまっているからだろうか。あまりそのvanityぶりにインパクトが無いというのが正直な感想だ。
 きちんと現代のvanityを表現したいのならば、芦屋とか山の手という言葉からだけのイメージに頼らず、もう少し実際にハイソな人々を取材する必要があったのではなかろうか。どうも頭で考えたような紋切り型の小金持ちの姿しか伝わってこない。少しでも取材すれば、きっと現代的スタイルを有したユニークな関西ハイソの実態が浮かび上がったであろうことを想像すると、なんとももったいない作品である。

 自分は何ものでもないくせに、他人への批判精神は旺盛な画子という人格は、読んでいて決して好意的には受け入れられないのだが、ある世代の陥りやすい典型を描いているようでもある。何かしなければという焦燥と苛立ちが強いということだけはよくわかる。
 しかし、早稲田出身の女性だからこうだという妄想に近い自意識過剰ぶりは、どうにかならないものか。今どき大学のカラーなどというものがはっきりあると信じているのは、朝のニュース番組で信憑性の裏打ちも無いまま臆面もなく流している星座や血液型占いを鵜呑みにして「私って、双子座でB型だからこうなのよね」と思いこむと同じくらいナンセンスなことだと思うがどうだろうか。
(新潮2005年10月号)

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