2007年7月 3日 (火)

「わたくし率 イン 歯ー、または世界」 川上未映子(早稲田文学2007年0号)

 早稲田文学から突如現れた気鋭の新人、いや新魔女である。
 2006年の早稲田文学フリーペーパー版7号にごく短い小説「感じる専門家 採用試験」が発表されていたが、思えばあれは小手調べの挨拶代わりに過ぎなかったのだ。
 今回はマジでキメてきた。
 濁流の如く言葉が溢れかえり、その勢いに圧倒される。
 一見、電波に見えて、実は真っ当。
 その裏腹加減がなんとも不穏である。
 
 主人公は、自分という存在が奥歯に詰まっていると考えている。
 よく女は子宮で思考するというが、彼女は奥歯に「わたし」が宿っていると考えるのだ。
 奥歯は「わたくし率100%」なのである。
 なんだそりゃと思うけれど、よく考えれば、未だに人間の意識や心の所在は全くわかっていない。奥歯に心が宿っていると考える人がいても仕方がない。クオリアをめぐる議論に通じる話がここにある。

 彼女は「わたし」の存在に悩む。「わたし」をいくら考えても、所詮それは「わたし」が考えていることで、「わたし」から逃れることはできない。
 恋人の青木と話す中で、川端康成の「雪国」の冒頭文が出てくる。
 「トンネルを抜けるとそこは雪国であった」というお馴染みのものである。
 そこには主語が書かれていないが、その主語は何だろうと彼女は考える。
 この疑問は彼女の「わたし」の悩みと絡み合っている。

 物語は後半、思いがけない展開を見せるのだが、その中で、この「雪国」の疑問も解き明かされる。
 せつなさも感じるほどの見事なクライマックスである。
 
 次もぜひ読みたいと思わせる何か不思議で危険な魅力を持っている。
 舞城王太郎とも本谷有希子とも違う新しい資質を感じた。
 
 これからこの魔女に、いざなわれて進む先はどんな世界なのだろう。
 決壊寸前の濁流の土手に佇み、足下にじわじわと不穏な水が浸み、逃げなければならないのに、眼前に広がる濁流に魅了され、なぜか身体を動かすことができない。

(早稲田文学2007年0号)

そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります
そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります川上 未映子

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2007年6月13日 (水)

「てれんぱれん」青来有一 (文學界2007年7月号)

伊藤整文学賞受賞第一作と銘打たれている。
ちなみに受賞作は、短編集『爆心』。
単なる原爆小説ではない、人間の業を真っ直ぐにみつめた迫力ある書である。
それにしてもこの伊藤整文学賞、目配りが利いている賞だ。
『日本文学盛衰記』高橋源一郎、『シンセミア』阿部和重、『金比羅』笙野頼子、『退廃姉妹』島田雅彦と、歴代受賞作を眺めてみてもわかる通り、きちんとした仕事の跡を残す作品を的確に選んでいる。
文壇の残された良心というか、佳品セーフティネットともいうべき役割を果たしているのではないか。

てれんぱれん、とは長崎地方の方言で、なんとなくぶらぶらしている様子のこと。
主人公の「わたし」の父は、てれんぱれんを体現するような人物であった。
家はニラ焼きを名物にする居酒屋で、母が一人で切り盛りしていた。
てれんぱれんな父を見て、母は苛立ちを隠せない様子であったが、父はあまり気にせずマイペースに生きていた。
そんな父には、あるものが見える能力があった。
それは「わたし」にも、いつしか見えるようになった。

俗な言い方をすると、ある超能力を持った父子ということになってしまうが、
そんな言い方では、きっとこの作品の本質を見失ってしまうだろう。
しかし、このオカルトめいた要素を通してでしか、語れなかったことが確かにここに存在している。
同じ能力を有したことによって、はじめて知った父の気持ち。
性格が違うので、理解は到底できないが、そういう気持ちがあるのだということを許すことができる瞬間。
そういう想いを描くために、この超能力は極めて有効に機能している。

世の中のてれんぱれんなことに我慢できず、イライラしている人、そんな人が読むと、少しはやさしい気持ちになれるかもしれない。

(文學界2007年7月号)

爆心爆心
青来 有一

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2007年6月 1日 (金)

「オブ・ザ・ベースボール」 円城塔 (文學界2007年6月号)

第104回文學界新人賞受賞作。
作者は昨年の小松左京賞の最終候補にもなっていて、その作品「Self-Reference ENGINE」は既に単行本化されている。
こうしたSF畑的な人が受賞したというのは、とても面白い。
久々に、純文学の枠を拡大してくれそうな才能である。


物語は、人が空から降ってくる町が舞台で、主人公はそれをバットで打ち返すレスキューチームの一員である。
人が空から降ってくるのは一年に一度あるかないか。
そのため、レスキューチームの出番は少ない。少ないが決してヒマではない。
なぜなら、いつ人が降ってくるかわからないからだ。


これは、なぜ人が空から降ってくるのかという謎に立ち向かう話ではない。
レスキューチームの「俺」がえんえん考える、日々のよしなしごとに耳を傾けることが話の中心である。
実際、人は空から降ってくるが、あまり劇的ではない。
「俺」がただひたすら任務について語ることが主軸なのだ。


したがって、語りによほど魅力がないと辛い。
語り口は、どちらかというと男っぽい口調でキレがある。
ヴォネガット風と指摘した評者もいたが、言われてみれば、ある種SFっぽい語りなのかもしれない。
このSFっぽい語り口は、好き嫌いが分かれるところだろう。
(個人的には、残念ながら、あまり好きな口調ではなかった・・・)
ともあれ、第2作以降、どういうものが出てくるか楽しみな作者である。
(文学界2007年6月号)


Self-Reference ENGINESelf-Reference ENGINE
円城 塔


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2007年5月30日 (水)

「炎のバッツィー」 加藤幸子 (新潮2007年6月号)

あのバッツィーが帰ってきた!
2006年11月号の群像に突如現れた、謎の生物バッツィー。
その奇怪な言動と傍若無人の行動は読んだ者を恐怖のどん底に落とし込んだ。
そして、バッツィーが深い雪山に捨てられた時、ホラー映画の結末のようなカタルシスを覚えた。
しかし・・・
ホラー映画のお約束の如く、バッツィーは再び戻ってきたのだった。
死んだと思って、ほっとしたところを急襲するのは、まさにお約束で、こうなるとかえって清々しいほどだ。

バッツィーとの暮らしがまた始まる。何事も無かったように。
小姑のような嫌みなバッツィーのコトバが主人公に突き刺さる。
忘却虫に脳を冒されているせいか、台所で火を使っても忘れて放置する。
しかも、なぜか火が好きなため、火事の危険が常にある。
こんなバッツィーとずっと暮らしていかなければならないのだ。

主人公の目下の願いは、自分もバッツィーと同化することである。
バッツィーを憎みながらも、どこかで自分とバッツィーの共通性を見抜いている。
人は誰でも老いると、バッツィーになっていくのだ。

しかしこのバッツィー、キャラクターとして相当魅力的だ。
全身鱗。頭の毛が薄い。ほうじ茶が好き。独特の異臭がする。耳が遠い。火を使うのが好き。
怪獣のようないびき。とにかく構われるのが好き。
視覚化する猛者はどこかにいないか。
(新潮2007年6月号)

家のロマンス家のロマンス
加藤 幸子


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2007年5月29日 (火)

「湖の南」 富岡多恵子  (新潮2007年1月号)

大津事件と言っても、たいていの人には教科書の中の事件に過ぎない。
私もそうだ。なぜそんな今どき誰も興味を持たない事件をことさらに書く必要があったのだろうか。
そんな疑問のうちにこれを読み進めていった。
しかしなぜだか面白い。奇妙な好奇心が頭をもたげる。
事件の犯人、津田巡査の生涯は、お世辞にもぱっとしない平凡なものだ。
結局、ロシア皇太子を刺した動機もよくわからない。
魔が差したとしか言いようのない、くだらない話だ。

歴史小説やテレビの歴史番組などで扱う事件には、ちゃんと意味付けできる背景がある。
その背景がドラマを作る。
しかし、往々にしてそうした意味ありげな背景というものは、脚色されている。
真実は複雑怪奇で実際のところ、当事者にしかわからない。
だからそれを一般化するには、わかりやすい陳腐さが必要だ。
陳腐さをもって、人々はそれを「事件」として納得できるのだ。
いや、納得したいのだろう。
作者の富岡はその陳腐さの欺瞞に対して、陳腐さをもって逆襲した。
陳腐な田舎巡査の起こした馬鹿馬鹿しい意味の無い事件を掘り起こすことで、
ほんとうの姿の歴史を逆説的に語ったのだ。

後半、話は作者にまとわりつくストーカー的ファンや、奇妙な行動をする家政婦の話がしばしば挿入される。
事件の背景を語る代わりに、富岡は、自身の周りに起こった不快な出来事を綴るのだ。
普通の歴史小説ではありえない脱線である。
従来の歴史小説を読み慣れた読者であれば、こうした脱線は掟破りで、イライラすることだろう。
しかしそのイライラの正体が何であるかを今一度考えてみてほしい。
それこそが、「歴史」というもの対して、我々が知らず知らずに持っている誤った先入観なのだということを。
(新潮2007年1月号)

湖の南
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star昔、湖の南に男ありき

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2006年12月 4日 (月)

「いやしい鳥」 藤野可織  (文學界2006年12月号)

 第103回文學界新人賞受賞作。
 家に訪れた教え子が、奇妙な鳥に変身するドタバタ劇。
 鳥には恐怖のイメージがある。元々、鳥は恐竜だったというから、ほ乳類の本能として人間は、元は虫類としての鳥に恐怖を感じてもおかしくないらしい。
 
 鳥に変化した男との闘いぶりは壮絶そのものである。襲われるべき原因がきちんとあるならあまり怖くもないのだが、その原因がはっきりしないため、恐怖が倍加する。所詮、鳥と人間では話が通じない。

 鳥人間との闘いを演じている男宅の隣人も、薄々異常を感じている。
 話の冒頭と最後に、隣人からの視点で、この状況を客観的に描いているのが特徴的である。ノーマルな隣人の目から語ることで、日常の中であくまで起きた出来事ということを強調したかったのだろうか。

 偶然だが、同時受賞した「裏庭の穴」も隣人がキーとして出てくる。
 最近は隣人トラブルの事件も多いから、「不気味な隣人」というモチーフはわかりやすいのかもしれない。

 古い恐怖のイメージである「鳥」と新しい恐怖である「隣人」を組み合わせたところにこの小説の面白さがあるようだ。

(文學界2006年12月号) 
ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編
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star渾身の力作ではないでしょうか?
star文学の捧げもの
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2006年12月 3日 (日)

「裏庭の穴」 田山朔美 (文學界2006年12月号)

 第103回文學界新人賞受賞作。
 娘にせがまれて買ったミニブタを世話する主婦。ブタは日に日に大きくなり、もはやミニブタとは言えなくなるほど巨大になる。
 主婦は孤独である。いつも不気味な監視をしている隣人、浮気をしている夫、家族と没交渉の娘。話し相手はブタだけである。
今どきの主婦の悩みをデフォルメしたような作品だ。
 
 落語に「堪忍袋」という噺がある。
 不平不満をすべて吸収してくれる便利な袋。しかし、よってたかって皆で不平をぶちこんだ結果、最後は破れて、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた不平の叫びが一挙に飛び出すというオチである。
 このブタは、まさに堪忍袋の如く、主婦の不平を呑み込んでいく。
 便利なブタである。しかし便利なものには必ず落とし穴があるものだ。

 ややホラー仕立てのストーリーなので、話の行方を追っていくうちに、読めてしまう。
 題名にもなっている裏庭の穴とブタの関係はよくわからない。ブタだけでもいいのではとも思う。しかし、裏庭という、今では絶滅に近い場所を持ち出してくるのは、いかにも何かありそうで、不気味な雰囲気を盛り上げることに一役買っている。

(文學界2006年12月号)
 
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2006年12月 1日 (金)

「ポータブル・パレード」 吉田直美 (新潮2006年11月号)

 第38回新潮新人賞受賞作。
 ある家族のそれぞれの日々を綴った作品。
 姉は「去勢された猫に愛を説く伝道師」と称する男と住んでいる。
 二人の間には双子の子供もいる。
 妹はディスカウントショップに店長として勤めている。
 
 設定としてはなかなか面白いが、いかんせんリアリティが無い。
 猫に愛を説くと言うが、具体的にどのようなことをするのか一切説明は無いし、お客も全く登場しない。
 猫に愛情があるのかといえば、そうでもなく、単なるアパートの一室にケージが並べれられ、そこに猫が押し込められているだけだ。
 私だったら、こんなところに大事にしている猫など絶対に預けたりしない。
 猫を思い切り走らせたいとか言って、どこかの草原に出かけていくが、そのまま猫が逃げてしまう。なんとも無責任極まりない伝道師である。
 
 店長である妹もリアリティが無い。どこの世界に店長がパンダの着ぐるみを着て客寄せする店があるのか。店長ならもっとやるべき仕事が果てしなくあるだろうに。世のホンモノの店長が読んだら噴飯ものだろう。

 話全体が、幼稚な大人たちのままごとのように思える。作者自身のインタビューも掲載されていて、「物語にならないように書いた」と述べている。
 ならば、奇妙な設定や人物など登場させないで、もっと普通の人々の暮らしを素直に書けばいいのではないか。
 
 選評もすべて低調で、他に良いのがないから仕方なくこれにしたという感じが文章から滲み出ている。
 落選した他の作品と並べて読めば、少しはこれも良く見えるのかもしれない。しかし実際誌面上は、平野啓一郎や絲山秋子ら、手練れ達に囲まれているわけで、見劣りすること甚だしい。
 
 と、ここまで書いたことは、これを読んだ者なら誰でも言いそうなことなので、無理矢理、別のことを言ってみる。
 「猫の伝道師」「パンダの店長」、いずれも馬鹿馬鹿しいほど、リアリティがない。しかし、今の世の中でリアリティを持って、自分の仕事を語れる人がどれだけいるだろうか。勝ち組負け組という空虚な線引きで仕事を分類すれば、成功者であるはずの勝ち組のやっている仕事には何のリアリティも無い。今の世の中、虚業ほど、富の数字が集まってくる。
 つまり、リアリティの無い仕事ほど、今どきの仕事なのだ。 
 そういえば、逮捕される直前、かのホリエモンは人類愛やら世界平和の実現などとのたまっていた。虚業人としては究極の言葉である。
 「猫の伝道師」という存在は、まさにそんな今の世を象徴している馬鹿らしさである。
 作者は、ふわふわとした空虚な家族を描くことで、逆説的なリアルを、読む者に、そっと突き付けているのだ。



 こんなふうに見方ひとつで小説なぞ、悪くも見え、良くも見えてくるということだ。世の批評など気にせずにこれからもがんばってください。

(新潮2006年11月号)

2007年カレンダー 日本の猫
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2006年11月28日 (火)

「怪力の文芸編集者」中原昌也  (新潮2006年12月号)

 怪力と文芸編集者、ひどくミスマッチな取り合わせである。
 思わず、かつて一世を風靡したパロディマンガ「サルでも描けるマンガ教室」を思い出した。
 「サルまん」には、弁髪で筋肉ムキムキの巨人編集者が登場するのだ。
 あのキャラが笑えたのも、「筋肉」「巨人」という体育会的イメージと編集者という存在がミスマッチを起こしていたからである。
 
 頭が筋肉なこの編集者は、ひたすら刷り上がったばかりの文芸誌の束を抱えて運ぶ。
 運ぶ行為はえんえんと繰り返される。
 それに付随して、運ぶことの描写も、同様に繰り返される。
 同じ描写で同じ行為が、全編ずっと繰り返されるのだ。
 時間がループしているわけではなく、事は明らかに少しづつだが前進している。しかし、そこで行われる行為と描写は繰り返しを続ける。
 
 時間は進んでいるのに、行われている動作はループするというシュールさ。
 加えて、行為を演じているのが怪力の編集者という奇妙な存在。
 どこか筒井康隆が描くような悪夢に似ている。

 と思っていたら、なんとその筒井先生がこれと同様の作品を書いていたらしく、そのシンクロニシティを驚いている。
 その驚きを綴る文は次号新潮(2007年1月号)に掲載され、続いて翌月にはその作品が発表されるという。
 筒井先生がどのような意図を持って、これと同様の構造の作品を書いたのか興味深い。

(新潮 2006年12月号)
名もなき孤児たちの墓
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starあえて醜態を晒す
star妖しく輝く「孤児」たち
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2006年11月26日 (日)

「夢を与える」 綿矢りさ  (文藝2006年冬号)

芥川賞受賞第1作と銘打たれている。
芥川賞を獲ったのはいつのことだろうと思わず指折り数えてしまうほど、その記憶は遠い。
「インストール」文庫版に短編が掲載されていたはずだが、あれはカウントされないのだろうか。
そういう疑問はあるにせよ、とりあえず、満を持した作品である。

内容はというと、まさに判断に困るものだ。
たぶん、いろいろな意味で、単行本になった時に物議を醸す作品である。
普通に読めば、少女マンガにでもあるような、通俗的ストーリーと言われてしまうかもしれない。
いや、どう読んでも、通俗なのだ。
ハーフの美少女がモデルとして芸能界デビューし、人気を得て、そして没落する。
いまどきの女の子が誰でも夢見るような話である。
いまさら、同人誌でもこんなベタな話はないだろう。

ではつまらなかったのか、というと決してそうではないから、厄介なのだ。
結構、読ませるし、おもしろいのだ。
文章は相変わらず、透き通るような緊張感を維持した、香り高さを持っている。
ディテールにも取材した成果なのだろうか、緻密な踏み込み方が見える。
そういう目に見える技術もさることながら、なりふりかまわず、作者が抱えたものをまっすぐに投げかけてくる、その姿勢がとてもまぶしい。
作者が抱えた何かを冷徹にストレートに読者に届けるには、こういう通俗な設定しか手段がなかったのだろう。
たとえその選択が、結果として、ベタで陳腐と呼ばれても、こうするしかなかったのだ。

これは単なる芸能界の話として読むと、何も見えてこない。
ある一人の女の子が生まれて、育ち、何を考えるようになるか、ということを冷徹に考えた小説である。
芸能界という、ある種の無菌的シャーレに入れられ培養される中で、女の子が生き物として、どう反応していくのかという観察記録でもある。
それはどこか、会田誠の絵画を彷彿とさせるリアルさを伴っている。
興味深いことは、女の子の記録が、彼女が生まれる前から始まっていることだ。
彼女の「発生」以前に、何が語られ、何が約束されたのか。
そこを忘れないようにして読むと、作者が抱えている冷たい何かに触れられるかもしれない。
(文藝2006年冬号)

インストール
4309407587綿矢 りさ

河出書房新社 2005-10-05
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おすすめ平均star
starインストール
star高校生が書いた作品としては
starなんかもったいない…

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«「異境」楠見朋彦 (すばる2006年4月号)